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PART 2.「個人事業主として、学生として」

多忙な日々を送り、区切りのついたところで食養生と食文化への学びを求めて1年間の旅へと出かけた新田理恵さん。様々な世界を知った帰国後の理恵さんの仕事と暮らしについてお伺いしていきます。個人事業主としてスタートを切った理恵さんは、どのようにキャリアを積んでいくのでしょうか。

個人事業主としてのキャリアの始まり

帰国後はフードコーディネーターとしての仕事をメインにされていたのですか?

初めはカメラマンとしてのお仕事が多かったです。当時はフードコーディネーターというお仕事は、関西ではまだあまり馴染みがないようでした。

料理の仕事は以前の知り合い、大学時代の繋がりなどから繋がっていったのですか?

大学時代の友人は病院や一般企業で勤めている人が多いので、そこから繋がる、ということはなかったです。飲食店でアルバイトをしていた時の繋がりの方が多かったですね。

それとは別に、関西にあるクリエイターの活動を応援してくださるコーディネート施設のMEBICに登録をしました。そこから地元のクリエイター同士の繋がりが出来たり、飲み会などにも行くようになり、参加したデザイナーさんから「こういった仕事があるけど一緒にやらない?」と声をかけてもらうこともありました。その経験から、デザイナーさんやディレクターさんと協業すると、自分のやりたい仕事ができるということもだんだんわかってきました。

大阪のクリエイターのパイオニア的存在である「graf」というクリエイティブファームの飲食部門でお仕事をしていたので、社内のプロダクトデザイナーやディレクターさんと撮影させていただくこともありました。食のことばかり考えていた私が、衣類や空間といった生活全般や、ものが作られる背景にも目を向けるきっかけとなった、大切な場です。親しい価値観を持つ多様な職種の人たちが暮らしを作り上げていく土壌は、私にとって働き方や生き方の視点が大きく変わるダイナミックなできごとでした。


大阪から横浜へ

大阪ではどのくらい活動をされていたのですか?

2,3年ほどだったと思います。

その後、横浜に拠点を移し、また一からのスタートになりました。

関東と関西だと仕事の傾向も違うと思うのですが、いかがですか?

そうですね。私は関東に来てからお金のお話はやりやすくなりました。

私の先入観が少し強いのかもしれないのですが、自分の親がお金に対してネガティブな部分が大きくて。商売をやっている人がお金の話をするのは無粋だ、という感覚があったんですね。お金に対してがっつくのは恥ずかしい、というような。

実家のパンやも含めた昔ながらの商店街では割引やおまけで愛情表現をする、というような部分もあります。値段の一の位は切り捨てるとか、ルールに則っていないやりとり。それが親しみのあるおもてなしに繋がっていました。私にもその感覚はあって、何か言われる前に値引きをしてしまうところが少しあり、親しい人からお金をもらうことが非常に申し訳ないと感じてしまっていました。その為、見積もりがとても苦手で。

ですが関東では、その感覚は薄いので、そこは割り切っていいことに1年くらいでようやく気付き、こちらも少し強めに見積もりを出してもいい土地柄なのだな、と思っています。その分土地代も高いのですし、仕方がないという部分もありますね。

あとは雑談が少ないと感じています。仕事が終わった後にお茶でもどうぞ、ということが少ないので、最初はとても寂しく思いました。人間と人間の関係性が上手く出来ていない気がして。でも時間効率がいいのだとポジティブな捉え方もできますし、違った良さはありますね。

関東に来られてからは仕事の量や効率にペースアップはありましたか?

案件自体が関西よりも多いので、撮影や商品開発の件数も増えました。大手の企業は、やはり首都圏に集中しているので、名前を聞いたことのあるような大手の企業さんと仕事をすることも増えました。チャンスが多く、エレベーターに乗っているような感覚です。とても速い。

ただ東京はとても広く、コミュニティーも分散している印象です。初めは土地勘もないので、どこにアクセスしたらいいのか戸惑うこともありました。

関東に来られてからは、まずどのようなコミュニティに参加されたのですか?

横浜に住んでいる時からパナソニック、ロフトワーク、カフェ・カンパニーの三社合同プロジェクトである「100BANCH」に参加しています。これからの100年を作っていく多様な若者を応援するアクセラレーション機能があり、拠点が渋谷にあります。4年以上お世話になっています。

渋谷はクリエイターは集まるしスタートアップも多く、ダイバーシティがある。常に新しいことが起きていますし、行政も応援してくださっていますし、再開発の勢いもあって、渋谷は面白いですね。年中お祭りのような賑やかさがある反面、昔ながらの神社やお祭りや町内会もあったりして、不思議な町です。

プロジェクトに参加するきっかけについてお聞かせください。

私には一度全部を失った時期がありました。立て直したい、けれど頑張りたいけど自力では立ち上がる気力も体力も無い、という時期が。そんな時に100BANCHを知り、アクセラレーションを受けることで背中を押してもらって、自分の力では抜けきれないようなところまで成長出来るのではないか、という期待をして参加しました。

その時はもう何とか生きなければ、という藁をもすがる思いでしたね。


100BANCHプロジェクトへの参加

「100BANCH」について、もう少し詳しくお聞かせください。

現在ではかなりの大所帯になってきています。グループは300弱が登録をしていて、メンバーの数は500人規模です。メンターの先生も区長や大学の先生、大手企業の社長など30名弱いらして、アドバイスをくださいます。

様々な職種の方がいらっしゃいますね。規模の大きい企業やアカデミックな方からアドバイスを頂けることで、事業が広がるきっかけにもなりそうです。

そうなんです。私の作った薬草のコーラやジンジャーエールも、カフェカンパニーの運営する全国のワイヤードカフェに置いていただけて、売上もようやく安定してきました。

メンターを務めてくださった東大の先生は農業がご専門なのですが、様々なプロフェッショナルをご紹介くださるうちに「そういえば私も大学院に行きたかったな」という気持ちを思い出しました。

どの学校の、どの学部に行こうか2,3年くらい迷っていたのですが、その先生の繋がりからまずは千葉大学の薬学部へ聴講生に行き、そして早稲田大学の大学院を志すことになりました。


学びと私。早稲田大学の院生へ

早稲田大学の大学院を志すきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

日本時間栄養学会の大会長である柴田重信先生がいらっしゃいます。最初は私がトークセッションを企画していた時に、柴田先生に登壇をお願いしたくて研究室にお邪魔したことがあります。その時に触れた人柄もとても素敵で。

先生のご専門である時間栄養学に興味があり、先生ご自身も漢方にも興味があるとのことでしたので、私と方向性があっているな、と感じていました。先生はこの時あと2年弱で退官されることになっていたので、どうしても2021年の春に院生にならないと先生のもとで研究室に入れないという状況でした。

今しかない、というとても追い詰められた状況でしたが、絶対に入りたくて必死に勉強をしました。どうしても英語のスコアが必要だったので1ヶ月死ぬ気で勉強をして、仕事もひたすら延期をさせてもらったり、メンバーに頼んだりして、何とか入学できました。

この先にこれだけ強く「教えを請いたい」と思える先生に出会えるかはわからなかったので、絶対に合格しよう、と全力投球しました。学ぶことで、もう一度人生をやり直せると信じて。

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